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第5回 柔軟性と人心掌握術で'左遷先'の経営課題を解決 蒲生氏郷

戦国大名・六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男。近江(滋賀県)・日野城を拠点としていた。六角氏滅亡後は、信長、秀吉に臣従する。
秀吉によって伊勢松坂(三重県松阪市)、そして陸奥(福島県)・会津へ転封されるが、豊富な知識とアイデアで地域の経済発展を促進。
千利休からは「文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名」と評された。1556(弘治2)年~1595(文禄4)年。

現代のビジネスマンにとって"転勤"は、避けて通れないできごと。しかし、赴任先では、仕事の慣習や言葉のニュアンスが異なることも
あり、慣れるには苦労がいる。交通手段や情報化が進んだ現代社会においてさえそのような状況である。これが400年以上前の戦国の世
では、現代と比較にならないほどの高いハードルであった。さらに、住み慣れた土地を離れるのは、たとえ禄高が加増されたとしても、ある意味"左遷"に近く、受け入れがたい仕打ちと考えてもおかしくない。
2度もそんな憂き目にあったにもかかわらず、それぞれの地の慣習や地理に馴染み、さらには人々の心を上手くコントロールし、経済政策で大きな成果を上げた部将がいた。それが、蒲生氏郷だ。ここでは、氏郷の働きを顧みながら、現代にも通じるマネジメントのヒントを探ってみたい。

商人の誘致HDの確立で経営基盤を固める

氏郷の最初の転勤先は、伊勢・松ケ島城。織田・豊臣政権に臣従し、自身も伊勢攻めに加わった氏郷にとっては"敵地"ともいえる土地で
ある。そのため、この地への赴任は困難が予想された。さらには長年にわたる戦乱で農村は荒れ、年貢の徴収もままならない。
そこで氏郷が考えたのが、近隣の近江から日野商人を誘致して商業の拡大路線を敷くことだった。より多くの商人が集まれば、貨幣流通が活発化して大きな経済効果をもたらすと考えたわけだが、ここで大きな問題が生じる。地元商人と日野商人の軋轢だ。他所から来た外様社長の氏郷と、彼が引き連れてきた商人たちを、地元商人たちは簡単に受け入れることができなかったのだ。
この問題を解決すべく氏郷が行ったのが"HD(ホールディングス)の確立"だ。この頃、氏郷の居城・松ケ島城は、地震で大きな被害を受けており、港も使えない状態だった。そこで、2キロほど離れた四五百森(よいほのもり)に新しい居城(松坂城)を築城し、地名も「松坂」に変更することを宣言する。

これには、松坂城を親会社的な存在として、地元商人や日野商人はそのグループ会社と位置付ける。そして今後はそれぞれが"松坂商人"として経営に勤しみ、町の再建に尽力して欲しい、という目論見があった。考えようによっては地元商人から不満の声が出てきそうなものだが、それはなかった。なぜなら当時の伊勢財政は破綻の一歩手前。そのあたりの事情を見極めてのことだろうが、それでもやはり組織の連結化は賭けである。結果的にはそれが功を奏し、後の"松坂ブランド"の基盤づくりにつながったわけだが、ここで着目したいのは氏郷の柔軟性だ。左遷の憂き目にあっても、腐らず成果を挙げた忠誠心には頭が下がるばかりだ。

積極的な情報収集で、リスクヘッジ

優位性に着目し、それを活かす土壌を確立

氏郷は"海に近い"という地理的優位性に着目し、それを大いに生かした。まずは、機能不全に陥っていた港を整備して船による輸送体制
を本格的に確立。その上で、海外との交易も視野に入れて松坂商人による取引の基盤をつくり、さらには、海外の進んだ経済システムや文化を導入した。この事業は大きな成果をもたらし、その後の貿易が活発になったことは言うまでもない。
特筆すべきエポックは、現代でいう「簿記」の仕組みを持ち帰ってきたことだろう。この新しい仕組みを松坂商人たちは大いに学び活用することで大きく発展。多くの豪商を輩出した松坂商人の源流を築くことになった。
ちなみに、松坂の豪商であった富山家には、日本最古の商業簿記帳といわれる「足利帳(たしりちょう)」が残されている。これは、現代の複式簿記の原型だとされている。

現代は新技術や新しい仕組みを導入したヒット商品やサービスが日々登場している。しかしそれらは、ゼロから生み出されるわけではなく、もともとあった"自社の強み"に新しい技術や仕組みを掛け合わせなければ実現できない。
たとえば、今年初めにトヨタ自動車が発表したハイブリッド関連の特許無償提供などはその好例だろう。独走状態にあったトヨタのハイブリッドシステムの技術がオープン化されるとなれば自動車関連業界は色めきだって不思議はない。
ところが蓋を開けてみれば技術供与を申請した企業はほんの数社だったという。つまり、とてつもないチャンスが巡ってきても、他を凌ぐ優位性や強みがなくてはチャンスをモノにすることはできない。また、そこに気づくか否かが組織を統率する者の裁量だろう。氏郷はそれを見抜く目を持っていた。

'勢いに乗る'には、情報分析も重要だ

技術者を招き地場ブランドを立ち上げる

松坂での務めはわずか2年。氏郷は2度目の転勤を命じられる。場所は陸奥・会津黒川だ。ここで氏郷は、まず地名を「会津黒川」から「会津若松」に変更した。これには氏郷なりの配慮があった。氏郷が伴ってきた"元・日野商人"たちは、故郷の馬貝岡綿向神社を信仰しており、そのエリアは"若松の森"と呼ばれていた。それに因んで地名を「会津若松」としたことで、新天地に赴いた元・日野商人たちは大いにモチベーションを上げた。これはまさしく、人心を大事にする氏郷ならではの施策であり、組織に勢いをつける大きなポイントでもある。

しかしながら会津には肝心な資源がない。今でこそ会津では、伝統工芸品の会津漆器や酒造が地場産業として定着しているが、当時は産業らしいものが何一つなかった。
そこで氏郷は、日野から職人を呼び寄せ、"日野椀"と呼ばれる漆塗りの技術を導入し、これを会津でも奨励した。そして出来上がった製品を"会津塗り"と命名した。これによって古くから会津に住んでいた人たちも大いに喜んだという。
さらに、酒造や金工の職人を招き、その高い技術を会津へ移入させることで、会津は徐々に付加価値の高い製品を生み出すことができるようになる。そして江戸時代には、これらの事業は大規模な産業に発展していくことになる。現代の会津では、伝統工芸品の会津漆器や酒造がブランドとして定着しているが、基礎をつくったのは、まぎれもなく氏郷の働きかけだ。
顧客の立場に立ち、その要望に応えて自らの立場を上げる

"給料"と"情"がマネジメントの両輪

氏郷がゆく先々で町おこしを成功させた基本には、「人を大切にする心」がある。それを端的に表したのが次の言葉だ。

知行(給与・領地)と情とは車の両輪・鳥の翅(羽)

意訳すれば「人を雇用する場合、給料さえ払えば、あるいは、気遣いさえすればいいというわけではない。その両方を車輪のように、または、鳥の羽のように同時に動かしてこそ、部下は心から従うものだ」ということになるだろう。この言葉通り氏郷は、毎月部下を集めて自分の屋敷で会議を行ったが、会議では「怨まず、怒らず」が基本ルールとなっており、年齢や立場に関わらず自由な発言が許されていた。そして、会議終了後は自らが料理を振る舞い、風呂を沸かしていたという。客に風呂を提供するというのは、当時では最大級のもてなしだ。しかしこれではまるで「売り手市場」と言われる現代の、若手に対する接し方マニュアルのような気遣いとも取れなくない。つまり、乱世を生き抜く戦国武将にしては人に対して優し過ぎるのだ。

戦国の世にあって、氏郷は、なぜそこまでして部下の気持ちを尊重したのか...。
これはあくまでも推測だが、上司に恵まれなかった氏郷自身の思いがあったのではないだろうか。氏郷の伊勢・松ケ島城入りは明らかに秀吉が下した"理由なき左遷"の命で、その後の会津入りも同様だ。そうした中で持ち前の柔軟性で結果を出し続けた氏郷であるが、忠誠を誓った上司からの度重なる仕打ちに、いかに禄高が加増されたとはいえ、氏郷の心は決して穏やかであったとは思えない。つまり氏郷は秀吉を反面教師としていたのではないだろうか。

会議ではまるで貝のように押し黙ったままで、労をねぎらおうにも誘いに乗ってこない。仕事の進捗状況を度々確認しようものなら、あからさまに嫌な顔をされてしまう。それが今の若手のイメージだ。考えようによっては戦国時代の若手よりよっぽど手ごわい相手である。氏郷ならどうマネジメントしただろうか。

口頭のほうが正確に伝わることも多い

戦国のトップ2人に仕えたことで学んだ"リーダー論

氏郷は、13歳のときに人質として岐阜城に送られ、小姓として信長に仕えた。信長は、氏郷の非凡な才能を見抜き、自らが烏帽子親となって氏郷を元服させている。さらには、自分の娘を氏郷に嫁がせ、親子関係にもなった。その縁もあり、信長から岐阜や安土の町づくりや楽市・楽座における規制緩和、貨幣の流通、あるいは商工業者の保護策などを学んだ。これが伊勢や会津で生きた。
伊勢における氏郷の優れた経営手腕は、部将の中でも評判を呼び、名声が高まった。しかし、これにおもしろくないのは政権のトップにあった秀吉だ。松坂の町が整備され、商業基盤が出来上がったとたん、会津へ転封させてしまう。徳川家康に対してと同様、自分の目障りな人材を遠隔地、さらには面倒な事を押し付けるように左遷したわけである。

このように、戦国時代のトップ2人に仕え、両極端な処遇を受けた氏郷は、領国経営をどのように考えていたのだろうか? 氏郷のリーダーとしての言葉が遺されている。

春夏秋冬どれか一つにかたよらず、家風を正すことが主将の器と言うべきであろう

「優しさだけでなく、厳しさだけでもなく、バランスのとれた家風をつくり上げることができるかどうかが、リーダーの器だ」と氏郷は断言している。"バランス感覚"これは現代社会においても通用するキーワードだ。

企業の業績を上げるためのイノベーションやスタッフのモチベーション向上、オフィス環境の整備、働き方改革などが進むが、そこには、業務の状況を把握し、一方でスタッフの体調や心を管理できるリーダーの存在が必要だ。優しさだけでない。厳しさだけでもない。これらをバランスよくマネジメントできるバランス感覚こそ、いつの時代もリーダーに求められているのだ。

蒲生氏郷は、1595年伏見の蒲生屋敷において病死した。享年40。氏郷26歳のときに起こった本能寺の変では、安土城にいた信長の妻、子を自らの日野城に迎え入れ、明智光秀の軍を迎え撃とうとした律儀な性格だった。

周囲と良好な関係を築けば、ビジネスも円滑になる

蒲生氏郷ゆかりの地

中野(日野)城跡

昭和40(1965)年、ダムの造成によって土塁などはこわされたが、本丸と堀の一部が残されている。

滋賀県日野町 日野観光協会
〒529-1604 滋賀県蒲生郡日野町村井1284番地
http://www.hino-kanko.jp/sight/gamou/

福井市一乗谷朝倉氏遺跡
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■記事公開日:2019/04/16
▼構成=編集部 ▼文=小山眞史 ▼イラスト=吉田たつちか ▼写真=フリー素材

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